【お金にまつわる落語】芝浜

2019年6月9日

落語というと演目によっては理解に苦しんだり、現代では笑いにつながりにくいものもあるが、「お金や欲」が絡む噺は今でも容易に理解し、楽しむ事ができるものです。

つまり、今も昔も人の本質は変わらないということです。

ということで今回、富松が好きな演目「芝浜」を紹介してみようと思います。

あらすじ

天秤棒一本で行商をしている魚屋の勝は、腕はいいものの酒好きで、仕事でも飲みすぎて失敗が続き、さっぱりうだつが上がらない、裏長屋の貧乏暮らし。

その日も女房に朝早く叩き起こされ、嫌々ながら芝の魚市場に仕入れに向かう。

しかし時間が早過ぎたため市場はまだ開いていない。

誰もいない美しい夜明けの浜辺で顔を洗い、煙管を吹かしているうち、足元の海中に沈んだ革の財布を見つける。拾って開けると、中には目をむくような大金。

有頂天になって自宅に飛んで帰り、さっそく飲み仲間を集めて大酒を呑む。

翌日、二日酔いで起き出した勝に女房、こんなに呑んで支払いをどうする気かとおかんむり。

勝は拾った財布の金のことを訴えるが、女房は、そんなものは知らない、お前さんが金欲しさのあまりに酔ったまぎれの夢に見たんだろと言う。

焦った勝は家中を引っ繰り返して財布を探すが、どこにも無い。

彼は愕然として、ついに財布の件を夢と諦める。

つくづく身の上を考えなおした勝は、これじゃいけねえと一念発起、断酒して死にもの狂いに働きはじめる。

懸命に働いた末、三年後には表通りにいっぱしの店を構えることが出来、生活も安定し、身代も増えた。

そしてその年の大晦日の晩のことである。

勝は妻に対して献身をねぎらい、頭を下げる。

すると女房は、三年前の財布の件について告白をはじめ、真相を勝に話した。

あの日、勝から拾った大金を見せられた妻は困惑した。

十両盗めば首が飛ぶといわれた当時、横領が露見すれば死刑だ。

長屋の大家と相談した結果、大家は財布を拾得物として役所に届け、妻は勝の泥酔に乗じて「財布なぞ最初から拾ってない」と言いくるめる事にした。

時が経っても落とし主が現れなかったため、役所から拾い主の勝に財布の金が下げ渡されたのであった。

事実を知り、例の財布を見せられた勝はしかし妻を責めることはなく、道を踏み外しそうになった自分を真人間へと立直らせてくれた妻の機転に強く感謝する。

妻は懸命に頑張ってきた夫をねぎらい、久し振りに酒でもと勧める。

はじめは拒んだ勝だったが、やがておずおずと杯を手にする。

~ サゲ(落ち)~

「うん、そうだな、じゃあ、呑むとするか」といったんは杯を口元に運ぶが、ふいに杯を置く。

「よそう。また夢になるといけねえ」


Wikipediaより引用

この噺を聞いて思うこと

富松はこの噺から「大金をなかったものとして考える事で本来の自分自身を見失わない(冷静を維持する)」ということの重要性を投資の中でも生かすべきだと思っています。

投資は長い期間続けると運用額も大きくなり、得られる利益も次第に大きくなってくるものです。

多くの利益を得ると人は喜び、本来の自分から逸脱した考えや振る舞いに走り、その後、身持ちを崩すといった例は数え切れないほどあるものです。
(宝くじが当たったのに散財を重ね、その後破産してしまったり等々)

噺に登場する「魚屋の勝」は女房の機転で道を踏み外すことなく真人間になりますが、投資家は自分自身で戒める必要がありますね。

「芝浜」はこうした人間の本質を捉えた人情噺であるとともに「戒め」の面も表現されているので昔から好きな演目です。

そういえば、山手線の新駅は「高輪ゲートウェイ」駅じゃなくて「芝浜」駅が良かったのにと、いまだに思っています。

ちょうど本落語の舞台となった場所だし、
外国人観光客の人たちにも落語「芝浜」の噺を知って楽しんでもらうきっかけになるし、

なにより「芝浜」という響きが渋くてかっこいい。

日本の駅名は横文字似合わないよw